【インタビュー】株式会社エース電研 秋田光勇代表取締役社長/「秋田光勇社長が語る60周年の軌跡とこれから」
遊技日本2025年10月27日
1965年設立、遊技産業における設備のパイオニア的存在として業界を牽引してきた株式会社エース電研が、今年創業60周年を迎えた。
伝統を継承しながらたゆまぬチャレンジ精神で迎えた60周年の軌跡、次なるステージに向けた思いを代表取締役社長の秋田光勇氏に聞いた。(10月2日、本社役員室にて)
――この度エース電研が創業60周年を迎えられたとのことで、誠におめでとうございます。今の心境はいかがでしょうか?
60年、人間で言えば還暦です。人生の3分の2にあたる43年間を、遊技業界とエース電研に育てていただいたという感謝の思いがあります。振り返るとお客様や関係者様はもちろんですが、なんと言っても従業員の原動力に支えられてここまでやってこれた。今の礎を作ってくれたのは、間違いなく彼らの力があってのこと。業界も厳しいですが、今までもそんな時代を何度も乗り越えて我々は存続してきた。これからも業界の風を感じつつ次の100年に向けて歩んでまいります。
――秋田社長が入社された頃について聞かせて下さい。
入社前は医療系設備の販売に携わっていましたが、当時の私の給料は月10万円ぐらい。そんな時に、先にエース電研に勤めていた友人から誘われました。「夢があるぞ!」と。
――時代を感じますね。1980年頃でしょうか?
そうですね。当時はフィーバー機が大ブーム。新規参入はもちろん既存店も拡大路線で、店舗数も一気に18,000軒に向かう出店ラッシュの時代でした。
――入社当時の主力機はサンドイッチですか?
その時は「N40」という100円玉用の台間玉貸機と島還元装置「クリーンマスター」。あと指令盤方式だったコンピュータをユーザック電子工業とタイアップして、ブラウン管モニター付きオフィスコンピュータにしました。計数管理を画面で見れるのが画期的で、お客様のウケも良くて。
――出店があれば当然設備が必要ですね。島はもちろん、玉の研磨からサンド、ホールコンまで。
出店オファーが来たらワンセットですべての受注をいただきました。当時は寝る暇もないくらい忙しくて、確か営業職で入社したはずなのに、契約後は現場への資材搬入から島の玉入れ、台設置、オープン立ち会いからテストと、マルチタスクをこなしてましたね(笑)。特に5月、8月、12月は出店ラッシュで、いつも3~4軒を掛け持ちで走り回っていました。
――そこからスピード出世されている印象ですが、東京に来られたのは?
最初は大阪勤務。そこからまず和歌山営業所長になって、大阪に戻って営業部長。東京本社へは1996年頃ですね。当時はバブルが弾けて業界も疲弊してた頃で、希望を胸に東京へ来たのに最初の仕事がリストラを進める役目だった。これは辛かったですね。大阪の売上規模が大きかったので、東京は当時の瀧井社長が、大阪は私が守るといった役割分担でした。そして2007年に常務、2009年に専務、2011年に社長に就任しました。
――ちなみに創業者(武本宗一氏)は、どのようなご印象の方ですか?
随分と先見の明に長けた、そして研究熱心な方でした。創業は、当時問題になっていた磁石ゴト対策として防犯ベルが鳴る磁石探知機を開発したのが始まりで。その販売で実際にホールを回ってみると、島の中では人が人力で玉を入れたり、バスタオルで玉を磨くといった劣悪な環境だった。そこで何とか役に立てないかと、省力化機器の発想を始めたそうです。
――自動還元設備など数々の製品を生み出されていますからね。
「何とかならないか」という点に着眼して、試行錯誤しながら商品化していくという、それが今もエース電研の基礎になっていますね。
――二代目の武本永俊社長は「キングサンド」を作られましたね。
1,000円札対応のサンドを早々に開発しましたが、最初は全く売れなかった。硬貨サンドで十分だと。それが「レーザースペーシーB(平和工業)」の登場をきっかけに爆発的に売れたのを覚えています。ヘソ賞球が1個だったので結果1,000円サンドが主流になりました。
――そして三代目が武本孝俊社長、四代目が瀧井秋男社長、2011年には秋田社長が五代目として社長に就任されました。60周年を迎えて、これからのビジョンをお聞かせ下さい。
弊社は様々な発明をしながら省力化機器で大きくなった企業ですから、設備全般はもちろんですが、まずは島と紙幣搬送機に絞ってお客様のニーズに即したものをこれからも作り続けていきます。これがエース電研の背骨となる部分で、あとは空間創造ですね。ファンの方々に、いかに快適に遊技をしてもらえるようにするか。いわゆる一人あたりの寸法とか、イスや呼び出しランプなども大切な要素です。
――直近のトピックと言えば、2024年に円谷フィールズホールディングスグループとなりました。
フィールズは非常にパワフルな企業で、その機動力たるや凄まじいものがあります。今後はフィールズとエース電研で、ホールで必要なものはほとんどコンプリートできますよ、という形を実現させていきます。向こうは機械、こっちは設備の分野ですが、営業先は同じホール様ですから、全国に300名以上の営業がいち早くお客様のニーズをキャッチし、どこよりも早く提案できる強みがあります。
――確かにそれは大きなシナジーですね。
フィールズの企業理念「すべての人に最高の余暇を」にも相通ずるところがあって、弊社にも「娯楽文化を創造し、人々の生活に夢と潤いを提供する」といった理念がありす。例えばラスベガスのカジノは人の動線をすごく研究していて、レイアウト変更も頻繁に行う。これをホールに置き換えて考えると「単体島」であれば試しやすいですよね。視覚の印象というのは実はすごく大切なんです。試してみてお客様も快適だよね、稼働も上がるよね、となればレイアウト変更もスタンダードとなる。内装も含め、遊技機を華々しい舞台に上げて、それを光り輝かせるご支援、それを目指していきます。
――最後に話は変わりますが、先日、補給組合(遊技場自動補給装置工業組合)と自工会(遊技場自動サービス機工業会)、メダル工業会(遊技場メダル自動補給装置工業会)の設備系3団体が統合されました。新たに誕生した「遊技場設備機器商工組合」の副理事長を務められていますが、統合に至るまでの経緯をお聞かせください。
弊社は統合前の設備系3団体にすべて加盟していましたが、スマスロへの移行、店舗の減少、組合収入の減少などで、それぞれの組合の存在意義があるのか?ということを3年ほど前から提唱していました。3団体の理事長方も同じ考えを持っておられ、それであれば具現化しようということで私の方が音頭を取らせていただきました。
――スマパチやスマスロ、規模の縮小もありバラバラにやっていたのでは無駄も多いと?
効率化を図るために何ができるか。作成した資料を元に各組合で説明会を開き、シミュレーションもしましたね。それぞれの組合は企業のトップが集まりますし、歴史も長く合意に至るに時間を要しましたが、皆さんのご理解を得て新団体を発足することができました。東京本社の企業も多いことから東京事務所も設置し組合員が集まりやすくなったこともあり、今後はもっと連携を深め設備の分野で皆さんと業界の発展に努めていきたいと思います。
――ありがとうございました。
株式会社エース電研 秋田 光勇代表取締役社長
1962年5月27日生まれ。
若い頃から現場に立ち、経験を積み重ねてきた生粋の実務派。その実績が評価され、2011年に社長に就任。
現場の声を何よりも大切にしながら、「地に足のついた経営」を信条に、社員とともに歩むスタイルを貫いている。
≪趣味≫ゴルフ、仕事(でも、社員との雑談もけっこう好き)
≪メッセージ≫いつも“勇気と自信”を持って、本気で全力で!