ヤクルト、巨人、阪神で強打者として活躍した広澤克実氏。引退して20年以上、球界のレジェンドはなぜ、エネルギー事業を手掛けるHESTA大倉の社長に就任したのか。その歩みをたどる。

白球が育てた勝負の哲学

広澤氏の野球人生の原点は、物心つく前から白球を追いかけた茨城県下妻市にある。小学校では野球、中学校では柔道で関東大会準優勝を果たしたが、最終的に野球一本の道を選んだ。栃木県立小山高校ではエースで4番を務め、「江川二世」と呼ばれるほどのエースとして名を馳せた。

高校卒業時にはプロ入りの誘いもあったが、大学進学を決意。第一志望は早稲田大学だったが、腕試し感覚で受けた明治大学野球部のセレクションで高く評価され、入学を決めた。

「当時の明治大学野球部は、現在では考えられないほど規律が厳しかったです。しかし、今思えばそういった『地獄』のような日々が、その後のプロの世界で直面する重圧を跳ね返す土台になったと思います」。

明大時代には、ロサンゼルス五輪に日本代表として出場し、金メダルを獲得。大学卒業後は、ドラフト1位でヤクルトスワローズへ入団。当時最下位だったチームの再建を担った。その後、巨人、阪神へと活躍の場を広げ両球団で「4番」を務めた。その重圧たるや…と思いきや、広澤氏は「プレッシャーは自分で作るものです。明大の厳しさに比べればマシだと思えました」と豪快に笑う。

2003年、日本シリーズを最後に現役引退。プロ19年間で1893試合、1736安打、306本塁打、985打点、打率.275という輝かしい成績を残した。

白球が育てた勝負の哲学縁がつないだ第二の人生

そんな広澤氏とパチンコ業界との接点は、現役時代にさかのぼる。明大時代はけがで試合に出られない時期は、毎日のようにパチンコホールへ通い、プロ入り後も遠征の合間に足を運ぶほどの愛好家だった。

「『ゼロタイガー』や一発台を好んで打っていました。パチンコは昔から身近な存在でした」。

本格的に業界との縁が生まれたのは、少年野球団体「ポニーリーグ」の理事長に就任したことがきっかけだった。理事長を打診したのは、同団体の活動を長年支えてきたマルハンの韓俊氏(当時)だった。

「業界トップを走る方が私財を投じながら野球界の発展に尽力する姿勢に感銘を受け、私自身も無償で理事長を引き受けました」。

この活動を通じてHESTA大倉の清瀧静男会長との出会いが生まれる。清瀧会長からホテル事業の会員ケアを担う顧問就任を依頼されたことが、同社への入り口となった。顧問としてホテル事業を担当し、取締役、専務、代表取締役副社長を経て、社長就任を要請される。

当初は辞退も考えたが、会長や社員の支えを受け、重責を引き受ける決断をした。10年以上前には、日本大学大学院総合社会情報研究科で経営学(MBA)を学び、マネジメント論などを体系的に修得。この学びも糧とし、2025年12月、代表取締役社長に就任した。

4番として挑む次なる一手

現在、広澤氏が最も力を注いでいるのが「エネルギー事業」である。創業60年以上の歴史を持つHESTA大倉は、住宅開発を中心に事業展開してきたが、時代の変化を踏まえ、現在は太陽光発電を軸とした事業へと大きく舵を切っている。

主力商品の『HESTAソーラー』は、曲がる・薄い・軽いという特徴を持つ次世代型太陽光パネルで、長期の出力保証や独自の施工保証も備える。

パチンコホール向けには、電気料金高騰への対策として提案を進めており「電気代は今後も下がることは考えにくい。ホール様が抱える負担を少しでも軽くするために『HESTAソーラー』を活用していただきたいです」と語る。

また、直近ではガラス面をそのまま広告媒体として活用できる透過型LEDサイネージにも期待を寄せ、エネルギー事業と並ぶ新たな柱へと育てていく考えだ。

経営者としての信念を問うと、広澤氏は迷いなく「1番は社員のため、2番は家族のため、3番は関連業者のため」と即答する。そして「『HESTA大倉』で働けて良かったと思える会社をつくることが、私の経営基準です」と語る。

勝負所で幾度も「4番」を任されてきた広澤氏。現在は、HESTA大倉というチームの4番打者として特大ホームランを狙っている。


株式会社HESTA大倉
【東京本社】
東京都千代田区霞が関三丁目2番5号
霞が関ビル6階
【設立】
昭和39年1月
【事業内容】
エネルギー事業、リゾート&レストラン事業、不動産事業、医療・ヘルスケア事業、
広告・メディア事業など
【URL】https://okura.co.jp/